アニータ・ムアジャーニ
Dying to Be Me (邦題:喜びから人生を生きる!―臨死体験が教えてくれたこと)
前回のアニータ・ムアジャーニの講演(1)からエラク時間が経ってもたw まあ、このブログを知っている人なら予想がついたこととは思いますが。いや、イイワケするわけじゃないんだけど、かなり後半まで出来ていたんだけど、Macが落ちたときにそのファイルがすっ飛んでしまったのよ。Mac中どこを探してもないんだから!かなりショックだったっす・・・。
んなわけで、言い訳をしましたが、出来ているところまでアップしちゃおうと思います。ちょいと忙しいのでまたこの続きはいつ登場するかはわかりません。あはーん。
パート1を読んでいない方は、そちらを先に読んでちょうだいな。→ アニータ・ムアジャーニの講演から(1)
この講演のオリジナルのビデオはこちら→ Anita Moorjani: Dying to Be Me
(32分40秒頃から)
素晴らしい驚くべき開放感に満ちたフィーリングの中で、その時もうひとつ感じたのは、父がまた肉体に戻るようにと私を鼓舞していたことでした。父は今はまだ私が旅立つ時期ではないと言おうとしているように感じ取れました。それでもまだ、自分には肉体に戻るか否かの選択肢があるように感じていました。本当に肉体には帰りたくなかったわ。なぜなら、私の肉体は死にかかっていたし、そこへ戻ったほうがいい理由なんて何一つ見つからなかったから。身体は死にかかっていて、苦しんでいたのは私だけではなく、家族全員が辛い思いをしていたのだし。そんな肉体に戻ったほうがいい理由なんて、何もなかったのです。だから戻るのは嫌だった。あそこに永遠に留まりたいと思っていました。
私はあらゆることを理解しはじめていました。別の輪廻でも私が夫や兄と一緒であったことがわかりました。壮大なタペストリーでその繋がりを見ていたのです。実に興味深いところは、それを私たちは過去生として認識するのだけど、でも、あの次元においては、あの壮大なタペストリーで全てを同時に見ていて、過去・現在・未来といったものはないように感じられました。全体が見えるの。自分の過去生の糸がどれなのかがわかります。まだ見ぬ未来の自分の糸もわかります。全ての糸を同時に見ることができるのです。全てが同時に進行しているようでした。そこで。私の夫ダニーとの関係ですが・・・、私たちの目的がリンクしていることを理解したのです。これは断じて彼を尊重してないから言うのではありませんよ、でも、もし私が死んでしまったら、私が向こう側へ渡ってしまったら、彼もその直ぐ後に、半年〜1年の間で何かが起こって、私の後をすぐに追ってくるだろうということが解ったのです。もし私が死ねば、夫も自分の使命を果たせないということを・・・。
(この写真は私とダニーの若い頃の写真だわ。)彼は自分の使命を果たせないの。
それから、兄とも別の生で一緒だったことがわかりました。そして突然、兄に対してとても大事に守りたいように感じられたのです。
少なくとも香港に兄が到着するまでは生きていなくちゃと感じました。彼はインドから飛行機に乗って香港に向っていたわけですから。はっきりと飛行機に搭乗している兄が見えたものですから。少なくとも、彼が私の肉体があるところに到着するまでは生きていなければ、と。ここに到着する前に死んでしまったら、彼が壊れてしまうと感じたのです。
(35:55)
信じ難いような明晰さを強く感じていて、何故私は癌を患ったのかの理由を理解しました。それから、私だけではなく、みんな同じなのですが、自分が素晴らしく壮大でパワフルなエネルギーであることもまた理解したのでした。私は決して癌や文化などの犠牲者などではないのだということが解りました。ずっと そうだと思ってたんですね。癌は自分に起きたことだと信じていました。でも、あの領域で理解したことですが、私は宇宙のエネルギー全てにアクセスすることができたのだということです。でも、生涯ずっとそれを知らなかったわけです。生涯ずっと私は自分自身を小さくしてしまっていました。自分に厳し過ぎたり、自分自身をまるでドアマットのように扱ってきたり、自分自身を見失うような状況へ追い込んだり、卑下したり、自分の個性を薄めてしまうようなことをしたり。そして自分の本心を語ることを怖がっていたわ。いつも人を喜ばせようとしたり、私に対する非現実的な期待に沿おうとしたり、もう自分が誰かも分からなくなっていたのでした。そんな風に生涯過ごしてきたのです。
そして、内側に向った自らの抵抗のエネルギーが癌であったことがわかりました。それが身体に癌として具現化したのです。実際、そのエネルギーは非常にパワフルだったので、あれほどの悪性の癌として実現し、私を死へと追い込んでいたのでしょう。でも、そのエネルギーは、私に敵対するものではないのだということもわかりました。外へ向けて表現されるべきものだったのです。鬱積し詰め込まれるようなものではないのです。外に向けて表現されるものだったのです。意識のすばらしさ、自分の魂の美しさ、パワフルな自分のエネルギーとして表現されるべきだった・・・。それがわからなかったのですね。そんなことは全く自覚していなかったのでした。
でも、わたしたちはそれを知って生まれてきているのです。生まれたときは知っていたの。でもあるときどこかで、それを忘れてしまったのね。教育や社会や文化 や、何層にも重なったレイヤーのせいでしょうね。自分が誰かを忘れてしまったのです。自分がどれだけパワフルか、どれだけの意のままに使えるエネルギーを 持っていたのか、ということも忘れていました。
そして癌がギフトであったこともわかりました。私の命を救いにきてくれたギフトだった・・・。あの明晰さは信じ難いほど素晴らしかったわ。その最高の明晰さを体験したときに、父がこう言ったのを感じました。さあ自分が本当に誰なのかという真理がわかっただろう。おまえは戻って恐れずに生きなければならないよ、と。その時、私はその先へはもはや進めないことがわかりました。その先へと進めば、命の繋がりが分断され、もう戻れなくなることがわかりました。
でもまたその時、戻ることを選んだならば、肉体が治癒することもわかっていました。とても早く治癒するだろうということが・・・。自分を通して宇宙の力を働かせる方法がわかったからです。そして私の身体が急速に治癒することがわかりました。
それから、その帰路は模索するのではなく、ただ展開に任せていればいいこともわかっていました。その時、私の父と親友が、さあ帰りなさい、恐れずに人生を生きなさい、と言ったのを感じました。
昏睡状態から目覚め始めたのはその時でした。そして目を開け始めました。とても興味深かったのは、私が最初に目をあけてみると、意識がひどくもうろうとしていて、まるで足を別々にこちら側とあちら側に突っ込んでいるような感じだったの。とてもぼやけていて、自分が昏睡から覚めていっていることもわからなかったわ。今起きたばかりのことが本当に現実的だったから。目を覚ますと、母や夫の顔が見えて・・・医者がもう私は目を覚まさないだろうと言っていたのに目をあけたので、夫は微笑んでいたわ。周りを見回して、母と夫に言いました。「お父さんがいるわ。お父さんがいるのよ!」と。母は私が何を言おうとしているのかわからないでいました。そして到着したばかりの兄の顔が見えて、みんなが私が目をあけたことを喜んでいました。それからドクターが部屋に入ってきて・・・このドクターは私が前に会ったことがない方だったのね。私が昏睡状態になって入院したときに当番で診てくださったドクターだったのです。彼が部屋に入ってきたときに、私は「こんにちは、チャン先生」と挨拶をしたのです。まず彼は私が目を覚ましていることに驚き、そして「どうして私の名前 を知っているの?」と聞きました。私が担ぎ込まれたときに診てくださったお医者さまですよね?と私が言うと、彼は「そうですけど、あなたはその時昏睡状態だったのですよ?」とこたえました。そして私は「そうだったんですか?」と言いました。私は自分では意識が遠のいたり戻ったりしていたと思ったのですが、 実際には完全に昏睡状態だったようです。驚いた様子で不思議そうにドクターが部屋を出た後・・・
あ、ドクターは家族にこういったんです、家族は「目を覚ましたわ、大丈夫かしら」など予後診断を求めていたのですが、私が非常にまだ弱っていたものですから、ドクターは家族に十分に気をつけるようにと言いました。私は本当に具合が悪かったのです。身体中まだ酸素吸入器や栄養補給器、薬などのチューブで 繋がれていましたし、身体も虚弱で筋肉はすっかり落ちてしまっていましたし。なのでドクターは家族に「気をつけてくださいね。まだまだ油断はできませんよ」と伝えたわけです。
・・・ドクターが部屋から出た後、私は夫に言いました。「ドクターは私が彼のことを覚えていることに、何故そんなに驚いたのかしら?彼が私の内臓がついに機能停止したとあなたに伝えたドクターよね?」と。すると夫は「どうしてそんなこと聞こえたの?だいたい彼がそれを話したのはこの部屋ではなかっ たんだよ?」その会話があったのは、部屋から廊下40フィートも先でのことだったのでした。ですからみんなが驚いたわけですが、でも何かが起こったことだけは理解したようです。
もう私は自分が治癒したのを知っていたわ。でも、まだ私の肉体が付いてこれなかったのね。4日以内に、腫瘍は70%縮小しました。
そして、あの時何が起きたのかを、私は語り始めたのです。本当に高まる気持ちで話しをしました。お父さん、 親友のソニーもいたこと。お父さんがまだおまえが来る時期じゃないよと言ったこと、もう自分は大丈夫ってわかっていたこと。
もう必要ないからこういうチューブは全部外してちょうだい、と言ったのだけど、まだみんなは「ダメよ、癌はそんな風に消えたりしないってドクターが言ってたわ。治療は続けなくちゃ、検査もまだまだやるのよ。」というので、「そうじゃないのに・・・」と言いました。そうそう、4日以内に酸素吸入は不要になったのよ。もう普通の食事が出来るから、栄養補給器も抜くようにお願いしました。まだ固形食は身体が吸収できないとか、前とは“色々変わっている”のだから、と言われてしまうのだけど、「そうね、何かが変わったわ。 今、私は生きる準備が整ったのよ。」と言ったわ。もうすっかり食べられると思ったので、栄養補給器を抜いてもらい、そしてドクターが病院食のメニューを見せてくれました。一度死んで息を吹き返したのは、病院食を食べるためなんかじゃないわ。(大笑)チョコレートアイスクリームがどうしても食べたいのよ、と言いました。(笑)ブランドまで特定していたので、気の毒な私の夫は、その特定のベルギー製のチョコレートアイスクリームを探しに出かけたわ。あの時、私にはそれが必要だったのですね。あのアイスクリームは本当に嬉しかったわ!
さて、また後ほど、私が癌になる前にどういう人間だったのかをもう少しお話ししたいと思うのですが、
その前に一言お話ししておきたいことがあります。その後数週間にわたって、「癌はそんな風には消えたりしないものだ、癌を見つけるぞ」とドクターが言い続けたので、検査は続行されていて、しばらくは抵抗していたものの、私を検査する必要があると思うのであればドクターが自分のためにやったらいいわ、と思うことにしたのです。私の家族にとっても、癌が消滅したということが検査でわかれば安心してもらえるでしょうしね。リンパ節の組織検査では癌の痕跡がないどころか、リンパ節自体は癌の可能性を示唆するような大きさもなかったのです。入院時はレモンの大きさくらいの腫瘍が全身にあったにもかかわらず、です。それがすっかり溶けてしまったのね。骨髄の組織検査でも癌の痕跡は無し。全身スキャンの検査も受けたけれど、やはり癌の痕跡はなかったわ。
その時は検査をすることに抵抗していたのだけど、今ではとてもよかったと思っているの。だって、自分に起きたことの医学的な証拠が残ることになったんですもの。(拍手)それが、—-ありがとう—- 私のストーリーをお話しするのに役立っているということだけではなくて、信じたいけど信じられないという人に信じてもらうのに役立っているわ。私の医学的な記録は、世界5カ所の癌の研究所で調べられたわけですが、どこの研究所からもあれだけの末期癌の段階から、あのように急速に癌が寛解した例はない、いまだかつてあれだけの末期の状態から回復した例はない、という返答が帰ってきました。寛解という言葉を使いましたが、ほんとはその言葉は好きじゃないのよね。でも医学的にその言葉が使われたので。どこの研究所でも前例がないということでした。それ以降、大勢の人々が私のカルテを研究することになったのです。それによって、楽になったし、自分がそんな体験をしてきた意味が理解できるようになりました。5週間かけて、十分に脚の体力を回復させた後のことですが、もう1つみなさんにお話ししたいことがあります。私には大きな傷がポッカリと開いている場所があって、そこから毒が流れでていたのだけど、ドクターはその場所に関しては絶対に手術が必要だとおっしゃっていたの。皮膚の修復手術が必要だと。私の身体は本当に弱っていて、そういうものを治癒させるだけの栄養がないからということでした。当時は手術に耐える体力もないということで、3週間後に手術をするということになりました。3週間ほどしたらもう一度診察して、修復手術が出来るかどうかみてみましょうとのことだったのです。その間は傷口を清潔に保ち、消毒をしたりしていたわ。そんな傷でさえ、完全に自己治癒しました。そして5週間で、癌が全くない状態で私は病院から歩いて退院しました。退院して2週間後、私は友達の結婚式に参加して、そこで踊ったのよ。(拍手)ありがとう。
(49:55)
私が癌になる前、どういう人間だったのかを少しお話ししたいと思います。私は実は健康にはとても気遣うタイプの人間だったの。これは特にはっきりとお話ししたいことです。私は癌の予防に関しては過度に気をつけていました。癌に関するあらゆる自然療法や予防法などを調べあげるタイプの人間だったわけです。サプリメントは取り憑かれるように服用していて、私の冷蔵庫は毎日服用するサプリメントでいっぱいだったわ。そして常に何が癌の原因になるのかを必死に調べていたのだけど・・・この写真は私よ、調べあげながら、どんどん具合が悪くなってくるの。癌の診断をされたときも、癌やその予防法についてあらゆることを調べるために常にコンピューターに向っていたのです。
オーガニック食品を食べ、ビーガンであることについては過度に拘っていました。自分でウィートグラスを栽培して、毎日飲んでいたし、みんなにも同じことをするよう勧めたりしていました。そして原料や成分がわかっていないものを食べることに恐怖を感じていました。本当に恐れてたわ。
その恐れのせいで健康的に社会適応していませんでした。自分にとても近い二人が癌になって亡くなり、癌の原因になるもの全てをとても恐れるようになりました。何もかもよ。太陽光から電子レンジ、プラスチック、遺伝子組み換え食品などの食品・・・。
さて、私が一体どういう背景でこの話しをしているのかは明確にしておきたいとおもいます。私は健康食品、清浄な水、遺伝子操作されてない食品を完全に支持しています。だからこそここで講演していているの。このアップリフト(※注:「アップリフト」はこの講演を主催している団体)の活動全てもサポートしているわ。
でもね、その当時私がしたことは全部、恐れという場から始まっていたのね。病いの恐れ、病いに対する圧倒的な恐れだったの。私がしてきた選択や決断は全て恐れから来たものだったのです。まだまだ自分はダメだという恐れ、人を喜ばせていない恐れ。これをしなかったら嫌われるかしら?あれをしなかったら彼らをガッカリさせてしまうかしら?これを食べたら、または食べなかったら癌になるのかしら、癌を予防できるかしら?何もかもが恐れが開始点だったのです。
さて、ここが変わったところよ。
今日、私がすることは全て、それは私が自分の人生が大好きだから、自分自身が大好きだから、なのです。自分に価値を見いだしているから。私が選択することは全て自分の人生を高めるものなのです。
恐れというところからは随分違うでしょう。(拍手)ありがとう。
(53分25秒まで)
【続く】
Comments
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ゆかさんのライフワークを今やっと理解した気がしました。訳が素晴らしいよ。アニータさんの体験は宇宙の法則を理解するのにとてもわかりやすくて、ゆかさんを通してこの本に出会えたことに感謝です。これからも色々教えてね。
恵さん、コメントありがとうございます!訳は日本語の語彙が少なくて恐縮だけども、その分分かりやすいかも (^^; あははは
長いのを読んでくれてありがとうございました。最後の部分も結構出来てるのだけど、なかなか完了させられなくて。また出したらお知らせしますね!