スピリチュアルで音楽・料理好きなおっさんレディがチェンマイから発信するしょーもないブログっす
From understanding comes love. 〜Rumi

上座部仏教僧侶とのお話

 
Posted on 2022年12月4日 (日) 5:17 pm
Filed under スピリチュアル, ヒーリング, 瞑想
読経の時間

片道2時間近くかけて、日本人僧侶が籠る田舎のお寺にいきました。某瞑想ツアーでもみなさんをお連れしたところです。静かに修行しているお寺なので、本当は押しかけたりしちゃいけないんですが、そこのいつもとてもお世話になっている副住職(実質住職)のO先生が、先日長い時間話し相手になってくれました。


私『なんとか気晴らしをしようとしていますが、否定的なことばかり思考してしまい、頭も感情もカオス状態、負のスパイラルに陥りがちです。』


旅行に行くとか友達とおしゃべりするとか美味しいもの食べるとか、その時は一時的にカオスもおさまるでしょう。でもすぐ戻ってしまうでしょう?自分のカオスを、まるで人のカオスを見るようにしてごらん。そうするともっと離れられるかもしれないよ。究極的にはそのカオスは、あなたのものではない。物事は色々なことが蜘蛛の巣のように、タペストリーのように織りあってできている。みんなで共有しているんだよ。


私『私は今自分の闇を、文章に書き出してみているのですが。できるだけポジティブに繋げる努力をしつつw』


それはいいね、内観になるから。あなたはいつも勇気があるね。前から思ってたけど、あなたは困難に正面から立ち向かって戦ってる人だね。大変なんだろうなと思う体験をしているのに、いつも笑顔で関心している。あなたはちゃんと自分を知っているから、絶対に大丈夫だから。


私『いや〜〜戦いたくないですう、平和に静かに生きたいです。』


いやそれもあなたの魅力だからいいんです笑 でも笑顔になれないどうしようもないカオスがあるなら、そのカオスを勇気をもって見つめるしかないのです。逃げられないからね。誰も救ってくれないから、とても辛いのはわかります。
今、私とあなたはこうしてテーブルを挟んで離れて座っているよね。こんなふうに物事に対して、離れて見るようにしてごらん。
私たち比丘は、世間や社会から離れて暮らしているから、あまりブレる要因がない。それでも時々感情的になったり迷いが出たりすることはあります。普通に生きていれば避けられないことです。でもあなたの苦しみのようなことは、私たち比丘はもう離れすぎていて、理解できないことなのかもしれない。でもね、人間は生きている限り苦しみがあるから、それとどう向き合っていき、苦しみに支配されない生き方をするかということです。


私『それが四聖諦とか四諦八正道というやつですね?』


それが一番ポピュラーな解決法だね。苦をどういうふうにみるか考えてね、四諦については知っているんだね。
あと、出離という言葉を知ってる?究極的な出離は出家。でも普通の人にとっての出離という状態は、色々なことから逃げるということではなく、文字通り、出て離れて見るということ。そしてそれも徳を積む行為の一種です。自分自身や精神を豊かにしていく方法の一つなのです。仏も出離と慈悲から始まってます。私は出家して、出離に人生全てをかけてしまいました。出家しなくても、出離の状態を自分でやってみることはできるわけです。あなたも一人になって離れてみることはできるよね。自分の色々な嫌なこととか過去のこととか、囚われていることとか、離れて内観してみる。日常から離れてみる。好きなだけここにいていいから、瞑想にきなさい。それも実践としての出離とも言えるでしょう。
あなたのカオスな状態に関しても、間を置くこと、離れることが必要かと思います。時間はかかるかもしれないけど、それが一番いい方法だと思います。将来の夢や計画を失ったことは、そう簡単には捨てられないような強い思い(執着)が残っているんですよね。それをずっと大切に温めてきて、それが生きる原動力になっていたんだろうね。でももうそれは捨てるしかないよ。


私『その出離を、在家のまま日常でするにはどうすればいいですか』


ヴィパッサナーで心を止めてみることですね。
一瞬一瞬の心の状態に気づくことがサマディ(三昧:自我意識が消えた状態)を形成します。
一瞬の、本当に瞬間的なサマディであったとしても、それを積み重ねていきます。特に瞑想の時間として、長く座らなくてもいい。日常生活の中、人とおしゃべりをしているときにもヴィパッサナーはできるからね。一瞬のサマディはただの一つの点かもしれないが、それが増えてくると、点同士が繋がり線となり、日常の中でサマディの状態が多くなってくる。それができている人は、困難の中にも落ち着きを保ち、自分の心の中の執着や苦しみから解放されることができるものです。サマディの目的は、なにか特別な神秘体験をするためではないので、サマディの体験を求めてしまうと、それは執着になってしまって本末転倒。
ヴィパッサナは鎮まっている心も「今鎮まっている」と認識するのだが、それを自分が見てしまうと自我が出てしまうので、意識から自分を離してあたかも他者が観察しているかのような傍観者になって心を見ることができるとよい。「ああ静かだなあ」って思ったらそれは自我であり雑念。分別知(事象や物事をありのままにそのまま正しく理解する)が機能しているのがサマディである。これができるようになると、ただ気持ちが楽になるだけではなくて、問題解決の仕方が上手になります。


(サマディにも段階があるけど今日は深入りしない
まだまだメモってますが、また後でまとめてみるかも

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