ドストエフスキーの話じゃありませんー
Phrae(プレー)の山の中、少数民族ムラブリ族の村を訪ねました。
彼らは「バナナの黄色の葉の精霊」(遊動生活で、一族が去った跡には住居で利用された黄色く枯れたバナナの葉が残っていたから)と呼ばれ、ほんの20年くらい前まで定住せず、他の民族とも接触を避け、分かち合いの中で平和に暮らしていたという。
近年、そんな彼らの生活の中にも文明の波が押し寄せた。
政府によって場所を決められて定住させられ、狩猟採集生活から農耕生活への変化を強いられた。
そして他民族に低賃金で働かされて搾取され、蔑まされ、貧困の中にいる。
文明へと招いたつもりかもしれないが、もともとお金のない世界、分かち合いの世界にいた彼らには馴染めないもので、彼らの本来の姿の美徳とか尊厳が維持できない生活になっている。
胸が詰まる思いがした。
ムラブリ族だけじゃなく、世界中マイノリティというのはどこも似たようなもんかもな。ガンジーは「文明はマイノリティの扱いによって判断される」と言ったが、この地球上に本当の文明国ってほとんどないよね。
ムラブリ族の村には、ほんの数時間の滞在です。なんもわかっちゃいません。ちょっと垣間見させて頂いただけの、聞きかじり情報で投稿してすみません。
さて、そんなわけで
昨日の続きでその時の私の脳内再生音楽なんですけど。
ムソルグスキーの「展覧会の絵」の中の「ビドロ(牛車)」。
「展覧会の絵」ねえ、ビドロは入ってないけども最初に聴いたのがエマーソン・レイク&パーマーですからね。ヒナステラ同様(笑)。冨田勲とかもシンセサイザーでガンガンやってたよね。おっと、話が逸れる。
ビドロは、ポーランド語で「牛車」という意味なんだそうだけど、その他に「家畜、虐げられた人」の意味があるんだそうです。処刑台へと向かう人々の姿を描いた悲劇的な社会状況を表現しようとしたとも。
低音が続く重々しい行進曲で、なんとなくショパンの有名な『葬送行進曲』に似てるでしょ。
逃れることができない宿命的なものを連想させる旋律からは怒りも感じられるし、でもその怒りをどこへも解放できず、諦めたように虚しく音がどんどん遠ざかって終わっていく様子は、その命の終焉も想像させられるんだよね。
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