スピリチュアルで音楽・料理好きなおっさんレディがチェンマイから発信するしょーもないブログっす
Follow your bliss and the universe will open doors for you where there were only walls. 〜Joseph Campbell

「寂しさ」を超越する

 
Posted on 2022年11月29日 (火) 9:30 am
Filed under スピリチュアル
天の川と友人夫婦
天の川と友人夫婦:チェンマイ、サムーンの展望台で

「孤独」と「寂しい」の違い

「孤独(solitude)」と「寂しい(loneliness)」は違う。日本語では、「寂しい」は悲しい感情だけど、「孤独」というのは一人でいる状態のことを表現した言葉なので、決して悲しい感情ではなく、楽しむことができるよね。思い出してみれば、若いころは孤独をもっと楽しんでいたと思う。特にアフリカにいたときは、孤独であることにワクワク感があったくらいで、一人だったからこそ体験できたことがたくさんあったと思う。

寂しさと依存

夫が逝き、大家族から一人の生活になって、歳をとってきて、私は今チェンマイでまた孤独を楽しまなればいけないライフススタイルになっているのに、どちらかというと寂しい感情に圧倒されてしまうことが多い。お互い慈しみ合えるようなパートナーと寄り添えたら、どんなに幸せなことだろうって。しかしこの寂しいという感情が伴った孤独感はとても危険だ。出会った相手に極度に依存してしまうようになるし、その人がいなければ幸せになれないという幻想まで持ってしまうからね。そもそも「寂しい」「人生一人で心細くて不安だ」(さらに経済的不安が加わると目も当てられん)が理由でパートナーが欲しいと思うのは、相手にも大変失礼なこと。誰も自分の人生を「FIX」してくれる人はいない。全部自分次第だから。寂しさを紛らわす意図で、他者と物理的に一緒にいたとしても、心が繋がっていないので、寂しさは消えず不安はさらに増すだけだ。自分が一人であることを受け入れ、自力でなんとかしようとする覚悟がないかぎり、一生依存できるものを求め続け、寂しさや不安が解消されない生涯を送ることになってしまう。

「1人でいても全然大丈夫」という精神的自立をしていきたいと思う。そのほうが依存ではなく、相手と対等な関係が持てるだろうね。そしてなによりもっと相手を思いやれると思う。寂しい病に陥って依存しているときは、相手から奪うことばかりになってしまいがちだからね。勝手に期待し、見返りや結果を求めたりね。不安だから「もっとこっちをみて、私だけをみて!」みたいになる笑。それは結構怖い(笑)。相手にとっても負担が大きく、その不安通りに崩壊するに決まってる。
わたしは寂しさに飲み込まれ、他者(パートナーとか)を巻き込んで振り回し振り回される人生ではなく、寂しい感情を上手に飼い慣らして孤独を楽しむ残りの人生を送りたいと心から願い、そのように努力をしていくつもりでいる。それが見事にできるようになったとき、不安や束縛や期待や見返りのない、本物の愛との出会いがあるのではないかと思うんだよね。

寂しさを乗り越えるのは愛

精神世界的な視点で見てみると、私たちは全員が宇宙・根源の分霊であるから、そもそも孤独感とか寂しいなどというものは、この世に生まれて個の肉体を持つことにより起きた幻想で、存在しないはず。大いなる源から分かれて生まれ、あらゆる体験をしてスピリットを徐々に進化させていきながら、また大いなる源へと還っていく。その間の究極的な学びが「愛」であると思っている。古今東西の聖人やマスターたちの教えもみんなそこに至るでしょ。

「自分が愛そのものになる」が愛の最終的な段階かもしれない。そうなるための第一歩として、まずは自分を愛すること。寂しさで圧倒されているようなときは、自己愛から取り組んでいく必要があると思う。
最近の私は、この世的な自己愛の実践(自分ケアする等)と同時に、もっと深いところの自己愛の実践を心がけたいと思っている。たとえば自分に偽りのない、ありのままの自分であることや、どんな自分も受け入れることを大切にしている。否定的な感情を抱く醜い私も含めてね。醜い自分をヨシとするわけではないけど、そんな自分も認めていかないと昇華できないもんね。負の思いは、どんなに隠し通したとしても無くなりゃしないんだから。
永遠不滅の神性である普遍的な愛は、決して枯れることがない豊かな泉のごとく、自然とこんこんと溢れ出るもの。そのとき自らが愛そのものになり、愛の不足で苦しむこともなく、幻想でしかなかった寂しさからも完全に解放されるだろうね。

今日くっつける音楽は、ジョニ・ミッチェルの「Both Sides Now」先日、FBでの投稿のコメント欄で紹介されていた、79歳のジョニ・ミッチェルが歌うバージョン。心にどんどん入ってきてしまう次元を超えた歌声で、とても胸が熱くなって涙が出た。若いときの歌もとっても素敵でいつも感情が込み上げてくるんだけど、これはまた特別でしょ。生きて色々体験してきたからこその表現。人生で起きてくる事象は、片方だけから見ただけでは実は何も見えていない。いつも視野は広くしておきたいと思うけれど、寂しいときは狭くなりがち。別の視点からの思いに気付くことができれば幸運だね。下に私の拙い訳を入れておきました。言葉遊び的な韻を踏む箇所などちょっと日本語にしにくいところもあります。

Both Sides Now

幾重にも流れる天使の髪
天空に浮かぶアイスクリームのお城
そしてあちこちへ広がる羽毛の渓谷
わたしはそんな風に雲をみていた

でも今、雲は太陽の光を遮り
みんなの頭上に雨や雪を降らせるだけのもの
やりたいことがたくさんあったのに
雲がわたしの邪魔をして来たの

今、わたしは雲を両側から見つめている
上からも下からも
でもね、思い出すのは記憶にあるただの雲の幻影で
実は雲のことなんて何もわかっちゃいない

満ちては欠けるお月様や巡り来る6月や観覧車
くるくる回るダンスみたい目が廻る
おとぎ話は実現するものだと
わたしはそんな風に愛をみていた

でも今それはまるで別のお芝居のよう
笑って舞台から降りよう
気になってもそれをわからせちゃだめ
自分を捨ててはいけない

今わたしは愛を両側から見つめている
与える側から、受けとる側から
でもね、思い出すのは記憶にあるただの愛の幻影で
実は愛のことなど何もわかっちゃいない

涙と恐れそして誇らしい気持ち
「愛してる」って大声で叫ぶこと
夢や計画やサーカスの人混み
わたしはそんな風に人生をみていた

でも今古い友人たちは変な振る舞い
彼らは頭を振って私が変わってしまったと言う
そう、いろいろ失ったし、手に入れたものもあったしね
今日まで生きてきたんだから

今わたしは人生を両側から見つめている
勝者の側や敗者の側から
でもね、思い出すのは記憶にあるただの人生の幻影で
実は人生のことなど何もわかっちゃいない

Comments

comments









trackback uri

 



Previous Topic:
Next Topic:

Leave a Comment

↑ページのトップへ

Earthborn Shop

カートは空です

Archives

Twitter